羊飼いたちの

 単純な真理と本質を感知する

 知恵を磨こう!

 

 

            主任司祭  藤 原 當 悟

 

 

            

                   2003.12.25

              

いと高きところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2・14)

 

◇暗い現実

 

ルカによる福音書が記している冒頭の神の御使いによる平和祈願は年毎に迎える
誕祭の夜半のミサで繰り返し繰り返し読まれてきました。キリストの誕生のときから

二千年も経ってしまったのに、戦争が地球上から完全になくなった年はおそらく一年

もないでしょう。一方で戦争が終結したと思ってもすでに他方で別の戦争が起こり、

多くの人が戦禍にさらされ、傷つき、いのちをおとしてきました。

 

いったん戦禍に巻き込まれると、逃げ場がありません。平和なときには武器を取って

人を殺すことなど考えもしなかった人でさえ、銃をとり、敵対者を殺そうとします。

死の恐怖がつのると、武器を持たない無抵抗の人に対してさえおびえ、夢中になって

殺しに走ります。戦後間もない頃のことですが、中国に出兵した近所の人が、進攻中

に手をあげて助けを求める農民たちを銃剣で刺し殺した辛い思い出を語ってくれたの

を思い出します。いったん戦争や激しい抗争に巻き込まれてしまうと、冷静な判断を

失い、狂気に走ります。しかし、その狂気の時が過ぎ去ると、先の人のように、多く

の人は人情や他人に対する思いやりを取り戻します。ありがたいことです。

 

しかし、パレスチナやアフガニスタンやイラクの戦争は、いったんは終結したかに見

えても、根深い不信と憎しみが残り、自爆さえ伴うテロや報復行動が後を絶たず、不

信と憎しみを消すどころか助長しています。

 

その点、日本の戦後は中東などに見られる部族や宗教間の根深い対立や抗争がほとん

どなく、国内においては戦争が尾を引くこともなく、種々の困難と取り組みながら、

心を一新して再建に取り組もうとする機運が生まれました。海に囲まれているため

に、大陸で見られるような異民族・異文化間の摩擦、抗争、対立は極度に少なく、

「吹き溜まりの文化」を形成してきたためだったのか、本当に幸いなことでした。

 

◇激動の成長期に受けた恵

 

私の世代は、国家主義的な国民教育を主眼とした「国民学校」(昭和16年〜22年)を

初めから最後まで体験した学年です。小学校に上がると同時に戦争を美化した軍国主

義教育を仕込まれましたが、やがて空襲警報サイレンと米軍機の上空通過が目撃され

るようになりました。南方の島の激戦でいち早く負傷したために九死に一生を得て、

増援隊を運んできた輸送船で無事帰国し、しばらく横須賀の海軍病院で治療とリハビ

リを受けた後、障害者となって終戦前に帰郷していた父が、負け戦を承知の上で、上

からの指示に従って、米軍の進攻に備えて竹やりを作り、「こんなことをしても何の

役にも立たないけど」と独り言のようにぼやきながら、いろりの熱灰で穂先をいぶし

て固く鋭い刃に仕上げている姿も見ました。それから間もなくして、天皇の敗戦放送

があり、ついに終戦を迎えました。一緒に机を並べて勉強していた在日朝鮮人のクラ

スメートが、ある日突然「自分たちは戦勝国の人間だ」と言い残して姿を消したのを

今も鮮明に覚えています。そして、敗戦直後のまとまともな教科書のない約一年半の

混乱期を経て、国家主義的教育の末路を小学校の最後の課程で、しっかりと学びまし

た。こうして、米軍の占領下で新しく発足した教育制度の下で、新制中学一年を迎え

ました。その年の五月に、戦争放棄をうたった昭和憲法の制定を体験しました。この

「新制中学一年生」の時代は、私にとってまさに暗黒の時代の終りを告げるものでし

た。明るい希望に満ち満ちた人生の再出発の門出でした。今振り返って考えて見る

と、私が体験した義務教育課程の九年間は、平和教育の貴重な基礎を学ぶことのでき

た、自分の人生のかけがえのない重要な時期であったと思います。

 

◇中学時代の興奮とめざめ

 

私が入学した新制中学校の校舎は、もと町内唯一の劇場として建てられたものであり

戦争末期に町に買い取られ、青年学校として改装されたものでした。二階吹き抜けの

中央のホール(もと客席)は土で固められた土間になっており、講堂と休憩時間の生徒の

遊び場として用いられました。教室や職員室その他の部屋はホールの三面を囲んで配置

されており、ホールには外から直接に入れるように大きな戸がついていました。始業・

終業の合図はホールにつるされた太鼓でした。教頭先生がよく太鼓をたたいていました。

 

最初の校長は大連の中学で校長を経験した郷土出身の引揚者で、教育者としての最後

のお勤めをふるさとでと、自分から校長を買って出た人でした。優れた人格と教育に

対する情熱を持ち、ふるさとの文化の高揚と世界に目を向けた人材の育成を夢見、自

ら校歌を作詞し、木板に毛筆で書き、それを自分で彫りこみ、ホールに掲げました。

また、率先して英語教育に取り組み、発音指導もしました。そして、繰り返し口にし

た言葉は「大志を抱け」でした。明治九年に札幌農学校に赴任し、内村鑑三や新渡戸

稲造や宮部金吾などに多大な影響を与えたクラーク博士が残した言葉です。

 

クラス担任は予科練帰り教師で、その校長の薫陶を強く受けた愛弟子とも言える熱血

教師でした。後には、シベリアで過酷な抑留生活を体験して帰国した教師も加わりま

した。彼らは、骨抜きの柔(やわ)にされてしまったいまどきの教師とは比較にならな

い、確かな人間愛と教育に対する熱情をもった骨太たちでした。試験の点数や偏差値

や体罰などが問題にされる余地はなく、師弟間の信頼は固く、激しいまでの大きな愛

情に生徒たちは包まれていました。

 

そのお陰で、私は中学を卒業すると、先に合格していた町内の県立高校を捨てて、迷

うことなく会社経営の定時制高校を選び、家を出ました。その後の針路はすべて自分

で決め、親や他人には相談しませんでした。カトリック教会と出会い、受洗し、修道

会に入ったのも自分の決断でした。

 

◇求められる発想の転換

 

私が紡績工場で寮生活を送った四年余りの高校・短大(3ヶ月)時代は、情報が今日

のように氾濫していませんでしたから、自分から飛び出して行かなければ、新しい生

きた情報やチャンスには遭遇できませんでした。そして、やってみなければどんな結果

になるかは全くわからない時代でした。本当によき時代に育ったととても感謝しています。

 

それと比較して、今の情報化社会、情報に完全に支配されている今の時代の中高生

は、出来るだけ沢山の情報を集め、将来を見極め、出来るだけ安全な道を歩もうと考

えています。そのため、自分たちを包む大人社会が障害として感じられると、すぐに

すねた行動に走ります。それは、障害にぶつかったら自分が確実にどうなるかを知っ

ているような気になっており、結果を簡単に確定的なことと決め付けてしまうことか

ら生じている問題です。視覚に訴える情報が限りなく増大し、文字や人の言葉に依存

していた時代には全く考えられなかったことが今、私たちの身の回りで起こっていま

す。映像を通して与えられた情報が、直接自分で体験した事柄のように自分の中に取

り込まれ、自分の決断や行動の大きな決定要因となってしまうのです。

 

人間同士の関係には、見えない数多くの要素が作用します。それらは、自分で直接体

験してみないと実際には全く分からないことです。その隠れた重要な要因を見ようと

もしないで表面的な理解で結論付けてしまうところに、現代の子どものひ弱さやもろ

さが露呈しています。

 

不登校や引きこもり問題の根底には、コミュニケーション(心と心の交流が理想)の

あり方の欠陥(手抜き?)が潜んでいるのではないでしょうか。ハウツウものが氾濫

し過ぎていることも大きな要因でしょう。現実をしっかりと受け止めて、それに対し

て最良の方法を自分自身で考えようとしないで、他人の考えや対処方法を利用しよう

とするところに無理が生じます。人間同士のやり取りの過程では予期しないことが生

じます。その際に、他人の成功例にとらわれて、臨機応変の対処を怠ると、結果的に

は手抜が生じ、それが積もって、コミュニケーションを困難なものにしてしまいます。

 

また、偏差値にとらわれた教育観も問題要因でしょう。偏差値教育は、ゲームソフト

の遊びと同列であり、答えがあらかじめ決まっています。しかし、現実の人間関係に

おいては、答えは一つではなく、多様です。親や教師は真実の多様性に対する対応能

力を育てることを怠ってはいませんか。人間の多様な価値を理解し、評価する知恵を

養うことが基礎です。

 

さらに、現代の、情報があふれ過ぎている時代にあっては、情報集めに奔走し過ぎな

いで、あふれる情報の中から一番大切なものを見つけたら、他はいさぎよく全部捨て

るだけの勇気を養うことも必要です。学校教育の目的が多くの子供たちには感じ取れ

なくなっています。すべてを相対化してしまい、物事の本質を見る意欲が衰退してい

ます。正に教育の受難時代です。親は人間の本質をしっかり捉えることを第一にし

て、後は、置かれた現実と個性に応じて、臨機応変に対応し、本人の側から意欲が出

るのを「待つ」愛情を大切にしたいものです。