復活のいのちを

めざして生きましょう

前主任司祭 藤   

 


 主の復活を心よりお祝い申し上げます

 

 まだ二、三年くらいのように思っているうちに四年が過ぎ去ってしまいました。主任司祭として鶴見教会に奉仕させていただいたことをとても感謝しています。ありがとうございました。

 今年(c年)の四旬節第五主日の第二朗読(フィリピ3・8〜14の中でパウロは「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」と述べています。回心前の彼が誇りに思っていたことを回心によってすべて失ったにもかかわらず、それをよかったこととして認識を改めています。そして、それだけにとどまらず、さらに「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と述べて、わたしたちが通常不幸なこと、悪いことと考えている「苦しみ」と「死」の中に、「尊いこと」「価値」を見出し、自分から進んでそれらを受け入れて、自分のものにしたいと願っています。

パウロは、神の栄光に輝くキリストの復活のいのちが、苦しみと死の中で輝き、生きていることを悟り、復活のいのちが、人を生かそうとして自分のいのち与えること(死)によって勝ち得られるものであり、それが神の人に対する思い(愛=いのちの現われ)に与ることを意味することを理解しています。この世の小さないのちが、宇宙を包む大きないのちとの交わりに与ることによって、大きないのちを自分の中に取り込み、自分のものにすることが出来るというすばらしさを知り、そのとりこになっています。

 苦しみと死を価値あるもの、尊いものとして受け入れるためには、葛藤が伴います。しかし、その葛藤は滅びるためではなく、新たないのちの創造であり、神の子に成長することであることを悟ると、苦や死に対するおそれは半減し、生きがいが生まれます。

 カトリックの信仰の中心にミサ聖祭があります。これはキリストが自分のいのちを食物として信仰者に与える式であり、拝領した信仰者はキリストのいのちを生きる者となり、したがって自分の新たないのちをほかの人のために与えること、つまり、人を生かすために生きることが求められます。これによってわたしたちは復活のいのちに与ります。真の生きがいはそこから生まれるのではありませんか。

不平、不満でいっぱいの人は自分の満足しか考えていません。それに反して、感謝と喜びを持つ人は他人の喜びとしあわせを考えて、他の人との交わりを大切にしています。

だからこそ、ヨハネは「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(一ヨハネ4・12)と言うことが出来たのです。キリストの十字架の死が神の愛を生きている姿であり、そのことが分かれば、神の愛がどんなものであるかが分かり、自分の兄弟のためにいのちを与える愛の意味が分かります。神に感謝。

 

追伸

生命尊重運動の一環として行っています 一口一円の「エンブリオ基金」を鶴見教会で行わせていただきまして、本当にありがとうございます。

鶴見教会での献金総額は約13万円となりました。胎児応援ボランティアとしての皆さまの献金は出産でお困りのかたがたの支援のために用いられています。今後もよろしくご支援ください。(横浜いのちを尊重する会懇談会代表 藤原當悟)