今年の四旬節黙想会は、イエズス会の作道宗三(つくりみち・そうぞう)神父様のご指導によって3月7日9時のミサとともに始まり、第一講話、許しの秘跡、昼食、第二講話、聖体賛美式と進められ、茶話会をもって終了しました。参加者は約60人でした。道を作るというお名前のすばらしさに加え、誠実なお人柄に溢れたご講話が、典礼聖歌と祈りを節目に折り込んで進められました。
第一講話から。黙想会の意義。それは良い話を聞くための会でもなく、また反省会でもないこと。また自分自身の日頃の行動の正しさや間違いなどばかり考えるのではなく、むしろ神が私たちに与えて下さっているお恵みに思いを巡らす時である。また安息日(日曜日)も、私たちの生活において余った時間ではなく、神様のために取っておいた、一番良い時間なのであり、それを差し置いてあれこれ余暇の過ごし方を計画し、遂行するよう義務感に捕らわれるのはみ旨ではない。
また、創世記など旧約聖書に記されているとおり神は光を見、また造られたものすべて良しとされた。随所に現れる神の広い愛、支え、贖いなどに気がつく。弱く、至らない私たちを力付け、希望を与えてくださる。私たちの住む風土は砂漠の中東に比べ木々の緑、穏やかな気候など特に恵まれていると感じる。この神の愛にイスラエルの人々はどう応えたか、日本に住む私たちはどうか。
第二講話から。現代はモデルになる人物がいない時代だと言われる。スポーツ選手は人気があるが、かつては尊敬された医師、教師でもモデルには成れない。父はどうか。むしろ母親のほうが元気がある。そんな時代である。そんな中で外交官の杉原千畝氏は若い人にも感銘を与えているようだ。
私たちにとっては、やはりイエスご自身が最高のモデルではなかろうか。キリストに倣いて(イミタチオ・クリスチ)は沢山の聖人が読んでイエスを手本にしようとした。
キリストの弟子達はさまざまなところで師に出会った。ペテロはその時ガリラヤ湖の漁師であった。そしてすべてを捨ててイエスに従った。何かを捨てるということ、それは痛みを伴う。しかし、もっと大きなものをいただき、豊かになることができる。貧しい人が幸いと言われるのはそのことである。地球上には私たちに比べ素朴で貧しくとも心豊かに生きている民族がいる。持てるが故の傲慢さと打ち砕かれた心、謙虚さとどちらが受け入れられるのだろうか。
人は祈るとき両手を開く、沢山の物を握り締めていてはそれができない。 祈りをするのに時間が無いというが、散歩のときにも、電車に乗っていてもそれはできる。イエスは朝早く人里を離れて祈っておられた、町に出て多くの人々に会う前に。 私たちも、仕事や人間関係でストレスが多いが、祈ることで新しい力を戴いて出掛けることができる。
小ホールでの茶話会ではカトリック学校での宗教教育に関しての質問などがありました。穏やかな春の一日、黙想会に参加して、私たちにとっては、復活祭に向けて良い心の準備となりまいた。急なお願いにも拘わらず、ご多忙な日時を割いて、私たちを導いてくださった作道宗三神父様に心から感謝いたします。 以上
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