主イエス・キリストの

御復活を心より喜び

お祝い申し上げます。

 

主任司祭  藤 原 當 悟

 

イエス・キリストの弟子たちの活動をまとめて記録したのが新約聖書の『使徒言行録』です。キリストのなき後、信者たちが使徒たちを中心にして、次第に教会として組織化され、成長発展していくさまが記されています。キリストがあっけなく捕らえられ、十字架刑によって処刑された直後には、使徒たちは落ち込み、ユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもっていました(ヨハネ2019、ルカ241321。それにもかかわらず、まもなく、彼らはキリストの証人としての自覚を驚くほどに強め、活発な宣教活動を開始しました。使徒言行録によれば、この大きな変化の節目は聖霊降臨の体験です。その体験により、キリストが神の子として生きておられ、使徒たちを内側から指導し、活動を支えてくださっていることを彼らは自覚し、死を恐れない、自立した信仰者に大変貌を遂げました。

社会的な地位や権力も持たない無学な田舎者の漁師ペトロを中心とする使徒たちの集団は、目にこそ見えないが、自分たちの中で生きて働かれるキリストを自覚し、信じて身をゆだね、その意のままに、自由に活動を展開していきました。彼らのバイタリティ、活動そのものがキリストの復活のあかしであり、キリストが彼らと共に働いて下さっているという確信の表れです。ペトロが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録36と言って、生まれながら足の立たなかった男を癒した行為は、自分に備わった超能力を利用したのではなく、自分の中に生きておられる神の子キリストを信じる信仰に基づく行為です。信者たちが新たな活力を得て、みんなが一心同体となって、積極的に活動を開始したこの節目の聖霊降臨の日は教会の誕生日とも呼ばれます。使徒たちが生きている神の子の体験によって勇気を得、生きているキリスト、死から復活したキリストの証人となって、積極的に宣教活動を始めたからです。

使徒たちの筆頭であるペトロはこの日、「イエス・キリストは死から復活し、生きておられる」と力強く証言したので、その日に三千人もの人が洗礼を受け、使徒たちの仲間に入ったとも記されています(使徒言行録2・1441。「キリストの復活」を死んだ人が息を吹き返す蘇生と混同してはならないでしょう。使徒たちの証言の中のキリストはもはやこの世の人としては生きていません。歴史を超え、神の子として生きておられ、現実には、わたしたちを内側から指導して支え、導かれていることが、使徒たちの確信にはっきりと現れています。

わたしたちは、信ずべき神を自分の外に捜し求めると、偽の偶像をつかまされたり、自分でつくりだす傾向が強まります。新約聖書によると、万物を超越した神は、それゆえに、わたしたちの内深くにおられることを証しています。わたしたちの内におられる神は、聖霊真理の霊あるいは弁護者(ヨハネ14151615として体験されています。

このたびのイラク戦争で独裁者の滅亡を喜ぶ人たちがいますが、その同じ人たちはすでに別の頼るべき強大な力の持ち主を求め、新たな独裁者づくり始めているのではないでしょうか。注意しておきたいものです。本当にわたしたち人間はおろかな者です。いくら頭のすげ替えをしたところで、それを生み出す人の心の回心が伴わない限り、同じ愚を繰り返します。暴力によっては心の回心は起こらず、憎しみや憎悪をいっそう駆り立て、目先の利には敏感に反応しても、心の底には払拭することの難しい不信がこびりついたまま残ります。戦争は人の心を傷つけることはしても、真の心の癒しはできません。

キリストはそのような現実をはっきりと見据えられていたからこそ「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ104345と言われ、そのとおりに実行し、十字架にかかられたのです。「すべての人の僕」になれという言葉には、わたしたちが敵と考え、恨みや憎しみの的にしている人をも含みます。そういう人々の僕になれということです。誤解されないように申し添えますが、言いなりになることを意味するのではありません。対決を否定しているのでもありません。対決は必要で、避けてはならない重要なことです。しかし、そのいのちをかけた対決は、暴力による対決ではなく、愛による対決です。とことん対話を貫く、交わりとしての対決です。人間性を充実させ、高めるための対決です。したがって、自分を押し潰そうとしていると思う相手をも思いやり、圧制を行わざるを得なくなった背景や事情を十分に理解し、そこから抜け出す道を相手の身になって考え、そこから抜け出す手助けすることのできる愛と勇気を持つことを意味します。たとえ、そのために殺されたとしても、それは無への滅びではなく、十字架によって示されている神の愛、真のいのち、神の子のいのちを生きることであると信じて生きることを意味しています。キリストが示された神の愛がそれです。それを認めてこそ、初めてわたしたちは胸を張って「イエス・キリストはすべての人の救い主である」と言えるのです。

確かに、現実のわたしたちはいきなり強力な権力を持った圧制者の前に立たされれば、恐れをなして萎縮するでしょう。しかし、よく考えてみると、圧制者は一日でできたわけではありません。彼らは利権を求めて群がる人々によって持ち上げられ、横暴も許されてしまうようになるという過程を伴っています。したがって、この過程において、先に気づいたものからそれを自分のこととして正そうとする愛と信頼の手出しが重要であり、それが圧制者の輩出を予防します。

この予防は、子育ての過程においてとても重要なことです。子育てにおいて、親や教師が行う手出しにおいて、このことについての理解と配慮が必要であり、回心が先に必要です。教育力の低下と共に学力の低下も問題にされますが、教育を知識や技術のレベルにとどめて考えがちな現今の日本の教育観は誤りです。その前のもっと基礎的な人としてのありかた、生き方、相互理解や交わりや協力よって発揮される、人間の本質を充実させることにこそ力を入れるべきです。大人になって必要とされる知識や技術は、人間性が充実してくれば、おのずから、問題を理解し、自ら進んで求め、獲得に努めます。学力の低下の本当の理由は人間性を未熟のまま放置して、目先の利得、数値化がやさしい表面的な評価にばかりとらわれて(それしか見えなくなっているのかもしれませんが)、それに振り回されているところにあります。そして、教育力の低下の根本的な原因は、何よりも親や教師が利己的な人間観に終始していることにあります。人を生かすことによって自分が生かされ、子どものために犠牲を払い、子どもを育てる事によって自分が育てられることを十分に身につけていないことです。簡単に数値化して計測できるものにばかり目を奪われていることは本当に問題です。

安易に数値化できないものにこそすべての基礎があります。つまり、数値化の困難な信頼や愛には困難や試練を乗り越える知恵や、持てる能力の発揮を可能にしますが、信頼や愛の欠落した人にはそれができません。困難や試練に遭遇すると逃げることに全力を投入します。すぐ破壊的な行動に走るのも、多分にそのためです。創造的、発展的に物事を考え、解決に取り組み、困難を乗り越えていく力は、信じ、愛する心から出ることを親や教師はもっと弁えるべきです。

独裁者、あるいは圧制者はおろかにもすぐ神の名を持ち出し、神を利用しようとします。しかし、信じる心、愛する心、人を生かすために生きる生き方を学び、身につけた者は、軽々しく口には出さずに生きて行きます。

なお、キリスト者にとって、最高の信仰の手本はイエス・キリストの母マリアの姿から汲み取れます。聖母マリアについて直接言及している聖書は福音書と使徒言行録だけあり、それもわずかです。そのわずかの記述において、たくましい信仰者の姿がうかがえます。天使の受胎告知においては、「お言葉のどおり、この身になりますように。」と述べて、未知の世界へ踏み込んでいく姿が描かれています(ルカ138。またその独り子を見失い、イエスの理解できない行動をとがめたとき、イエスに理解できない口答えをされても、賢明にも理解を深めようとして「これらのことをすべて心に納めていた。」姿(ルカ25052、イエスの活動を見守る母親の姿(マルコ33135、カナの婚礼の場でのマリアの言動(ヨハネ2111、そして、イエスの十字架の下での母の姿(ヨハネ192527、さらに、イエスの昇天後、弟子たちと行動を共にし(使徒言行録114、使徒の選出、聖霊降臨の場に立ち会われた姿は信仰者そのものの姿です。キリストと十字架を共に背負ったマリアは信仰者の母であり、わたしたちの最良の理解者であり、御子と御父に対する最良の代願者です。

したがって、マリア様に対する信心を大切にすることはキリスト者にふさわしいことです。数ある信心の中でも、ロザリオの祈りの信心は教会も勧めるいちばん広く行われている信心です。これについては、別の機会にもう少し詳しく説明したいと思います。とても単純素朴な形で、テーマに従って、心と頭脳をテーマに集中させながら、口では単純な祈りの言葉を繰り返し、手を働かせてロザリオの玉を繰ることによって、心身を一体化して、心を神に向けるとき、人間性の回復が体験されてきます。中世に起源を持つだれにでもできる信心です。こうした信心は度重ねることによって実を結びます。