キリストの誕生を喜び、感謝して祝う

主任司祭 藤 原 當 悟 

      皆さん、主の御降誕を心よりお喜び申し上げます。

 

待降節の練成会、チャリティー・コンサート、街頭募金などの恒例の待降節教会行事を終えて主の降誕祭を迎えました。皆様の大勢の参加に深く感謝いたします。

ところで、降誕祭は公現祭と共に復活祭に次いで古い伝統を持った祭日です。歴史的出来事の順ではキリストの誕生は復活に先立ちますが、祭日の歴史では復活祭が先であり、日曜日が主日とされた起源でもあります。初期のキリスト者の信仰体験はキリストの死からの復活という強烈な体験から始まります。そして、キリストの誕生の神秘にまでもさかのぼっていきました。福音史家マタイとルカは旧約聖書のイメージを駆使して、ユダヤの国の小さな村ベトレヘムでの誕生を物語っています。マタイはその物語の中でマリアの夫ヨセフの役割を表に出して経過をのべています。注目すべきことは東方の国の占星術学者の来訪とヘロデ王によるベトレヘム周辺の幼児殺しの事件を伝えていることです。ルカはキリストの先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生とキリストの誕生を織り交ぜ、どちらかというと、マリアを表に出して物語を展開しています。マルコは洗礼者ヨハネの働きから書き始めているので、誕生物語はありません。ところが、福音史家ヨハネはキリストの誕生について具体的な物語を避け、理念的にイエス・キリストの神的由来を序文の形で述べています。イエス・キリストは神の言(ことば)であり、命であり、人を照らす光であると述べています。神の言は肉となり(人として生まれることを意味する)、この世に神の恵みと真理をもたらす方であり、父である見えない神を見えるものとした方であると述べています。ルカが「聖霊によって生まれた」と述べたことを、ヨハネはイエス・キリストを「神の言、神の光」と呼び、イエス・キリストを神と等しい方として信じる信仰を表明しています。降誕祭の日中のミサではこの箇所が読まれます。

それではなぜ二千年も経ったいまも、私たちはキリストの誕生を祝うのでしょうか。それは、初代の信者たちが、キリストの人としての生涯の中に、人となった神の姿を見、それを信じたからにほかなりません。人の誕生を喜び祝うことはその人の存在を喜び祝うことです。二千年も経った今でも、キリストが人類の歴史に刻み込んだ足跡、その生涯が示した真理は今もなお生きており、人を生かし、導き、闇にさまよう人々の心を照らし、困難や障害を乗り越えさせます。そして何よりも、人の本質が愛の交わりによる一致の中に実現することを十字架の死を賭けてキリストは証しています。キリストの死は絶望の闇ではなく、希望の光です。どんな信じがたいような事態に直面しても、迷うことなく、神をめざし、前向きに生きる力を与えてくれます。どんな苦難の中にあっても、その中に生きる意味を見出し、苦難を背負う信仰の力を与えられます。

イエス・キリストの誕生を祝うことは、キリストの生涯と出会い、その命が、人間の横暴や残虐さ、戦争やテロに傷つき弱った心にも救いの道がまだ残されていることをはっきりと示してくれるからです。どんなにゆがんだ心にも、必ず信じる心が残っていることを、十字架上のキリストは信じて下さっています。私たちを信じていてくださる神の子の信頼を私たちも信じてこそ、自分を変えることができます。神が直ちに厳罰を下されないのは、「みなが悔い改めるようにと、忍耐しておられるのです」(ペトロU3・9)。「神の忍耐深さを救いと考えなさい」(同書3・15)という言葉は真実です。人間の真の救いと平和は神のゆるしと和解の恵みなしには決して実現しないでしょう。

たとえ人は信じられなくても、人を信じてくださる神(すべてを包んでいる存在)を信じましょう。そうすれば信じられない人のために自分に何ができるかが見えてくるでしょう。悪いところばかりとらわれていて見えなかった世界が、視野を広げることによって見えるようになり、憎み呪っていた人の中にも、貴重なよい宝があることも見えるようになるでしょう。よいところとよいところの交わりは、自然と、悪いところを補い合う作用を生み出します。

教会が典礼暦の中で、降誕祭の前に待降節を置いているということは意味深いことだと思います。ただし、「待降節」という表現は全く日本独自の表現です。待降節のもとになる教会用語はラテン語Adventus(アドヴェントゥス)(「やって来ること」、英語ではAdvent)です。「待降節」の「降」の字は「降誕」とも「降臨」とも解せますが、典礼用語としてのアドヴェントゥスにはキリストの降誕とともに世の終わりにおける「再臨」も含んだ二つの来臨を表しています。

また、待降節の頭についている「待」は待望すること意味しています。これが日本独特の付加された心情を表しています。キリストの誕生は歴史的に過去のことですから、私たちはもはや誕生を待つわけにはいきません。しかし、「降誕祭」の意味にとれば祭りを待つという意味はありますが、それでは飾り付けやご馳走が中心になりかねません。あるいは、歴史的なキリストから離れて、自分の心の中の出来事としてとらえ、こころの中に芽生え育つキリストに結びつけることもできるでしょう。しかし、キリストの出来事を、ただの心理的な出来事としてしまうと、人の実存を揺さぶり動かすだけの力は出てきません。センチメンタルなクリスマスの域を越えることはできないでしょう。

ところが、キリストの再臨は、将来のことです。未来に向かって生きている私たちにとってはめざすべき目的にもなりますから、「待つ」という概念は意味をもちます。「待降節」という用語はすっかり日本の信徒の中に定着した表現なのでいまさら変更は困難です。ちなみに、同じ漢字を用いる中国では待降節のことを「將臨期」と呼びます。これは明らかにアドヴェントゥスの翻訳であると言えます。

ここで、「待降節」にけちをつけてもせん無いことですから、むしろ、再臨を待つ時期という意味に理解し、誕生の出来事はそのための貴重な資料と考えた方がよいと思います。キリストの誕生は人に対する神の愛と恵みと信頼の現われとして受けとめ、その理解を深め、感謝と喜びの心で終局的な出会に重点的に備える時期として理解し直すならば、クリスマスの祝い方が変わるでしょう。再臨、つまり神の子キリストとの終局的な出会いを待ち望みながら、イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの存在意義を考え、神の愛、神からの福音を喜び祝う日としての降誕祭となります。この考えは日本人のもつ従来のクリスマスのメンタリティー、つまり、季節ごとにめぐり来る生活ムードの一端と化している実態の刷新に役立つのではないでしょうか。

このことは、教皇が広島で訴えられた平和アピールの中で繰り返された言葉「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです。」に当てはめて考えることができるでしょう。

私たちが生きている周囲の社会では毎日のように犯罪事件が起きています。人を信じることをやめさせようとする力が大きくのしかかって来ています。国の内外を見ても、愛と真理と誠による政治は行われず、力の駆け引きに終始し、人の心は希望に反して大きく傷ついています。今こそ、人となった神のことばと、その光を仰ぎ、照らされて、ひとり一人が自分を見直す必要があります。謙虚な心に立ち返り、闇の中でもがいていた自分を明るみに出して、痛んでいるところ、欠けているところ、補充や補強を必要としている箇所を見つけ、相互の交わりの中で、互いに協力し合い、助け合い、補い合って、神からいただいた命のバランスを取り戻すよう努めましょう。

イエス・キリストの存在は、はびこる悪に打ち勝つ道を示しています。誤りも示してくれます。その存在の尊さ知り、それを賛美し、感謝し、喜び祝うことにこそ、降誕祭を祝う意味があります。その感謝と喜びに満ちた心で世界の平和を祈り、私たちの隣人の中に信頼と希望をひろめましょう。それがキリストとの第二の出会いに備えたキリスト者の生き方でしょう。