人は愛するために生まれた、クリスマスは愛の祝日

 

         20031130日坂梨四郎神父様の待降節黙想会の講話から

                              (鶴見教会 土屋氏にまとめていただいたものです) 
 

第1講話
 渋谷のハチ公前は待ち合わせの場所です。ここで人を待っているには共通の表情があります。「いまかいまか」と待ちこがれて、人混みの中に待っている人を注意深く捜している真剣なまなざし、時計を見ながら心配そうにあるいはやきもきしながら待っているその気持ち、そしてその人を見つけたときのかがやいた表情、これらの豊かな表情がこの場所にあふれています。

 待降節は「救い主の到来を待つとき」です。ハチ公前で待っている人と同じような「神を待つ者の心の姿勢」が求められます。正しい緊張感をもって、注意し、必ず来るということを信じ、いつ現れてもいいように「目覚めて」待っているものです。このようにして待っている人は輝いています。

 ジャンボ宝くじに当たりながら取りに来ない人がけっこういるそうです。もったいないことです。宝くじを買ったことを忘れたり、どこかになくしてしまったのかもしれません。でもこれって、洗礼を受けて恵みに預かりながら、そのあとその恵みに気がつかないでいる人とよく似ています。洗礼を受けたという「宝くじ」に当たりながら、その恵みを取りに来ないわけです。

 マルテンスという画家の話です。ある古物商の店のすきまに一枚のデッサンが埋もれているのを見つけました。それはたいした価値のない画だと思われていたから隅っこにおかれてほこりにまみれていたわけですが、彼はその画を1ドルで買い求めました。家に帰ってその画を注意深くみていると小さな字でサインがあるのを発見しました。そのサインがピカソのものであることに気付いてその画を競売に出したら、なんと600万ドルの値が付いたということです。

 どこの誰が書いたかわからなかったときの値打ちはわずかでしたが、そこにピカソのサインがあったことによって、その画は高い価値を持ったのです。私たちひとりひとりには実は「神様のサイン」が書き込まれています。それに気付かなかったときの価値はわずかでも。それに気付いたときには破格の値段が付くのです。

 待降節は「神の似姿」として作られたことを示す神のサインに気付くときです。自分自身の中にあるいは人々の中に書き込まれた神のサインとしてのキリストの再発見をするときなのです。

 

第2講話
 私はいま星美学園という幼稚園から短大まである学校のチャプレンをしています。そこで児童生徒や学生に話をすることをはじめ、卒業生に結婚講座を担当したり、お母さん方やお父さん方を対象とした聖書研究会をもったりしています。それを通じて私が大切にしていることは「罪がゆるされることに喜び」を体験してもらうことです。

 ヨハネ福音書の5章に「ベトサダの池で病人を癒す」という話があります。その池の周りには多くの病人や障害を持った人が大勢横たわっていました。イエスは、そこにもう三十八年間も病気で苦しんでいる人を見つけて「良くなりたいか」と声をかけます。その人は「だれも私を池の仲間で連れて行ってくれない。私が行く前にほかの人が先に降りていって私はいけないのです」と応えます。

 きっとその人は「良くなりたい」なんて当たり前ではないか、なぜそんなわかりきったことを今更聞くのだろうかと思ったことでしょう。でもそのひとは自分が治らないことを人のせいにしてもう治ることをあきらめていた、そこを去ることも池にはいることもできずに絶望の中に毎日を過ごしていたわけです。

 イエスはそのひとに「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」といわれます。このイエスの一言がこの人を絶望から希望へ、闇から光へと変えていきます。

 わたしたちもこの病人と同じです。洗礼を受けて救いを得たいと思ってここに来たのに、救われることをあきらめてしまっている、去ることもはいることもできない、そしてそれを「誰も何もしてくれない」とひとのせいにしている。

そういう私たちにイエスは「本当に救われたいのか」と聞いてきます。そうだったら、いままで自分を縛っていたこと、マンネリになっていたこと、なにかのせいにしていたことを断ち切って「起きあがり、床を担いで歩きなさい」と言われるのです。

 人間の生涯は「たちかえっていく生涯」であると思うのです。「たちかえる」とははっと気付く、われに返る、本心に返る、つまり回心することであり、決意を新たにすることであるということです。神様から与えられた「当たりくじ」に気付くことです。

 でもその「たちかえり」をさまたげるものが教会の中にもある、マンネリやあきらめや「どうせ」という気持ちが妨げとなっているのです。放蕩息子の兄は弟のたちかえりを喜びませんでした。

 これと似た話にバルティマイの盲人の話があります。(マルコ10章46〜52節)彼はナザレのイエスだと聞いて「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と大声で叫び続けます。多くの人がしかりつけて彼を黙らそうとするのですが、彼は叫び続けます。「あのイエスがここにいる。今こそチャンスだ」と思ってかれはなりふりかまわず、人びとの制止をふりきってありったけの声で叫び続けるのです。

 イエスはこの声を聞いて、バルティマイを呼び、「何をしてほしいのか」と改めて聞きます。これもわかりきったことです。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と応えます。するとイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

 ベトサダの病人と違って、バルティマイはあきらめませんでした。なりふりかまわず叫び続けました。これが彼の「信仰」だったのです。そしてそれが彼を救った。結果的には、治ることをあきらめていたベトサダの池の病人もなりふりかまわず叫び続けたバルティマイも同じように救われました。このことも意味深いことです。

 スコットランドの高台に狩人たちが集まるレストランがあります。あるときそこのウェイトレスが過ってコーヒーをこぼしてしまい、壁にシミを作ってしまいました。たまたまそこには高名な画家がいあわせていました。かれはその壁のシミを使ってみごとな鹿の画を描いたのです。

 他人の失敗や過ちをもとにしてより素晴らしいものを作り出すというのは、まさに神様の技なのです。罪や欠点を恵みに変えてくださる神様にすべて委ねて生きられるようになりたいものです。

 

第3講話
 待降節からクリスマスにかけては「愛を深めるとき」です。人は愛するために生まれてきました。神様から「愛の種」をいただいて、これを死ぬまで育てて「愛の成長」のうちに生きられたら素晴らしいことです。パウロのコリント人への第一の手紙13章の「愛の賛歌」はこのような「無償の愛」「絶対的な愛」「永遠の愛」を高らかにうたっています。

 「愛とは広い心」特に自分とは違った意見や考え方をもっている人を受け入れる「広い心」です。相手の弱点や欠点を受け入れるとともに自分自身をもありのままに受け入れることが求められます。

 「愛は親切心」情け深く、憐れみ深い。相手の立場に立って行動できることです。自分の立場からすることはお節介になります。そしてそれは必ずしもあいてから受け入れられないかもしれません。相手から受け入れられなくてもそれでも続けていけるものです。

 「愛は善を願う心」すねたりねたんだりすることなく素直に皆の幸福を願う心です。喜ぶ人とともに喜ぶことです。

 「愛は謙虚さ」自慢せず、高ぶらず、見栄を張らないものです。目立つことを望んだり、権威にあこがれたり、自分の能力を誇りに思う人はしばしば人を見下げます。愛は人を決して軽蔑しません。愛は人を「尊敬する心」です。

 「愛は利己的ではない」自分さえよければという心から脱皮し、他人を優先させます。自己中心的で子どもっぽい人、わがままな人、誠実でなくずるい人は利己的になりがちです。本当の「おとなになる」ことは利己的でなくなるということでしょう。

 「愛は穏やかな心」感情的になって自己コントロールを失いやすい、怒りっぽい、忍耐力のない人とともに暮らしていくことは大変なことです。「ハヒフヘホ」があります。ハ=腹を立てない、ヒ=批判をしない、フ=不平不満を言わない、ヘ=偏見を持たない、ホ=朗らかにです。

 「愛は信ずること、希望すること」自分を好きになれないことは不幸なことです。他人とは嫌いであったら別れることや離れていることができるけれど、自分とは分かれることも離れることもできず、いつも一緒にいなければなりません。その自分が嫌いであったら、それは一番の不幸です。自分がかけがえのない人だと思えない人が他人をかけがえのない人だと思えるわけがないのです。私なんかいないほうがいいと思うことは神様に失礼です。そのあなたのためにイエスは十字架上で死んでくださったのです。

 「幸せ」という日本語は「仕合わせ」という言葉からきたと言われている美しい言葉です。それは仕え合うということです。そしてそれはゆるしあうということでもあります。

 「ゆるし」ということに関して四つの態度があります。

 まず「絶対にゆるせない」という態度です。必ず仕返しをして報復をしあうのは地獄です。「ゆるすけれど忘れない」というのもあります。何かというと過去のことが蒸し返されます。「ゆるすけれどもうつきあわない、友達ではない」というのもあります。

 本当のゆるしは、「ゆるします。忘れます。あなたの幸せのために」です。自分を侮辱したこの人のために命をかけてゆるしたのがイエスでした。コルベ神父もマザーテレサもこのゆるしと愛のうちに生きた人でした。

 三つの愛があります。自分にたいして、隣人にたいして、そして神にたいしての「愛」です。自分にたいして他人にたいして、ゆるしあい仕え合うことによって神への愛が成長していきます。クリスマスは神の子が愛のために生まれてきたことを喜び合う「愛の祝日」なのです。皆さんクリスマスおめでとうございます。

 

 

  もしも、あなたが悲しんでいるなら、喜びなさい。

    クリスマスは喜びだから。

  もしも、あなたに敵があるなら、和解しなさい。

    クリスマスは平和だから。

  もしも、あなたが傲慢であるなら、低くなりなさい。

    クリスマスはけんそんだから。

  もしも、あなたに負債があるなら、弁済しなさい。

    クリスマスは正義だから。

  もしも、あなたに罪があるなら、悔い改めなさい。

    クリスマスは恵みだから。

  もしも、あなたが暗闇に沈んでいるなら、灯をともしなさい。

    クリスマスは光だから。

  もしも、あなたが心得違いをしているなら、反省しなさい。

    クリスマスは真実だから。

  もしも、あなたが心に恨みを抱いているなら、捨てなさい

    クリスマスは愛だから。

  もしも、あなたが絶望をしているなら、キリストに目を向けなさい。

    クリスマスは希望だから。

  もしも、あなたに友人がいるなら、探し出しなさい。

    クリスマスは再会であるから。

  もしもあなたに愛する人がいるなら、愛を告げなさい。

    クリスマスは肯定だから。

  もしも、あなたの身の回りに貧しい人がいるなら、助けなさい。

    クリスマスは贈り物だから。